でもさ、送り出すことしか、できないじゃないか。
だって、解るから。たぶん誰よりも解っているハズだ。10年一緒に芝居やってきたんだ、そのくらい解らせろ。
いや、「解る」なんてのも一方的/暴力的なものでしかないんだけど。おれがそう思ってるだけ/思いたいだけなんだろうけど。
この話はだいぶ前から聞いていたし、何度も個人的に話もした。当然慰留したし「一緒に辞めちまうか」みたいなことも考えた。そういう中で覚悟はしてたつもりだけど、いざこの段になってみて、自分のか弱さに愕然とした。
おれは呑みに行きたいんじゃない、バーベキューがしたいんじゃない、ラジオで話したいんじゃない。
一緒にコメディが作りたいんだ。
正直に言おう。
淋しい。キツい。人間、こういうときは本当に目の前が真っ暗なるものなのだなあ、と薄ぼんやりとした頭で考える。 いや、突然の報せじゃなくて、本当に良かったと思う。
でも、前向きなことも書かなければならない。『帰ってきたドラえもん』ののび太だって、あんなに頑張っていたじゃないか。
自転車は漕ぎ続ければ倒れない。
だから、おれは漕ぎ続ける側でいたい。倒れないように。倒さないように。そのためには、ペダルを踏み込むしかない。
いつかまた、と言うためには前に進むしかないのだ。表現は、集団は「前進さもなくば後退」ではなく「前進さもなくば転倒」だから。
そんなどこか後ろ向きな「前進あるのみ」ではダメだっていうことは解っている。たぶん誰よりも解ってる。解ってるけど、ポジティヴな言葉を吐くにはやっぱり重過ぎる。「でも、やるんだよ」が精一杯。
いやはや、とりとめのない散文になってしまっていることから、ダメージの程が伺えるねえ。
塩原俊之が欠けても、アガリスクエンターテイメントは続いていく。おそらく今までと変わらず、いや今まで以上に進んで行く。それは明らかだ。ここでダメならそりゃダメだってことだ。
だから本来なら、ここでおれは「塩原ファンは淺越あずかりです!」とか「おれしかいねえだろ!」とか言うべきなんだけど。ちょっともう少しだけ、立ち止まらせてくれ。これすら美味しい"シチュエーション"としてエンターテイメントに必ずするからさ。
背負うなんて悲劇ぶるつもりはない。第一おれはコメディ劇団の劇団員だ。喜劇の側だ。だからこれも引き受けて、これすらガソリンにして、受け身取って立ち上がるしかない。今までだってそうしてきた。そうしてきたから10年塩原さんとやってこれたんだ。だからこれからも立つ。立って戦う。止まる理由ではなく進む理由が、またひとつ増えたんだ。
でも、ね。
最後の悪あがきとして、「エクストリームまたやりましょう」て絞り出した。明確な返事はもらえなかった。
でも、ね。
「絶対にない」なんて、絶対にない。
失ったものを数えるとき、この言葉は希望だ。